第75章  浅草 雷門納涼OFF

場所:  浅草
日時:  2004/08/13
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浅草観光OFF

hiroakiさんから、本日のオフは浅草・雷門の真下で集合いたしましょう。
久々に浅草寺でお参りをしながら仲見世をくぐってその辺の赤ちょうちん納涼という具合でいかがでしょうか。



上京しはじめてきました雷門  

この前に立っていたら、ハリウッドのチャイニーズシアターを思い出す。

浅草と言えば・・・・・・仲見世!!


浅草・仲見世・観光地と言えば

いましたいました・・・外人!!

浴衣まで着ちゃって・・・日本満喫!!

一風変わった3人衆  (「・・)ドレドレ..




いい雰囲気出てますね。

v(=∩_∩=)

もう一つ、浅草と言えば。。。。

おこし、雷おこしだ!!!

Hide945R的には、草加煎餅の方が美味しいと思う。



雷門から宝蔵門までの表参道の両側、やく250mの間に並ぶ88軒の鉄筋コンクリート・朱塗りの商店街を仲見世といいます。
 江戸時代の貞亨年間(1684〜7)参道の両側には12の支院が並んでいました。参道の掃除をしていた近所の住民にその代償として、支院の前に出店を許可されたのが始まりです。
店の形は、床店、箱店、よしず張りなど簡易なもので時間になると店を畳み、商品と一緒に持って帰るという形式でした。当時の商品は線香や楊枝などだったようです。楊枝は現代の
爪楊枝ではなくて歯ブラシの役目をするものでした。材料は柳が最高とされ桃・杉・クロモジ・竹なども使われていました。長さは10cm以上の長いものであったことから「武士は食わねど・・・」やテレビの時代劇「木枯らし紋次郎」のいでたちが理解できます。

 時代の経過と共に店の形が変化し、支院の境内に賃料を払って茶店が出来たり、扱う商品にも変化があって餅菓子、和装品、玩具、海苔、絵草紙などが浅草名物としてみやげ物などが喜ばれるようになっていきました。
どの店も看板娘をそろえて売上を競い評判の美人は錦絵にも描かれて人気が高かったといいます。
 浅草餅の金龍山はじめ和装品の松ヶ枝屋、人形焼の木村屋、江戸玩具の助六、紅梅焼きの梅林堂など江戸時代に創業した店も多く並んでいますが、時間をおいてみると看板が変わっていたり商い商品にも変化が見られます。

 
明治時代になって、仲見世の建物は浅草寺の支配から東京府の管轄となり、1885年(明治18)当時としては最も新しい煉瓦づくり・洋風の2階建に生まれ変わりました。しかしながら、この建物は1923年(大正12)の関東大震災で崩壊しましたが、翌13年に現在の鉄筋コンクリートで再建されました。
この建物も昭和20年の戦災で内部は焼けましたが、改修されて現在も使用されています。
 江戸時代の道路事情は「雨なら泥んこ、晴れたら砂塵」と最悪だったようです。参道の敷石は文政年間(1820ころ)信者からの寄進によって敷かれました。当初は全部で5543枚(91cm×31.5cm)石の脇面には寄進者の名前が彫られていたそうです。
 
 早朝の仲見世を歩かれた事はありますか?、両側で88軒のお店のシャッターに壁画が描かれています。浅草の四季の風物詩を描いた「浅草絵巻」は平成元年4月に完成しました。

仲見世ではありませんが
駒形堂から雷門への参道を並木通りといいます、ここで天和のころ(1680年ころ)奈良茶飯と称する茶店が出来て豆腐汁に煮しめ・煮豆などを食べさせて評判になったそうです。




浅草寺の宝物殿
当初は仁王を納めていたところから仁王門と言われ、平安時代の中期から建てられていたと伝えられる。
1649年(
慶安2)に家光によって、本堂などと共に木造では最後の楼門が建築されました。
昭和20年(1945)の空襲で本堂と共に焼失したが、ニューオータニホテルの大谷米太郎氏の寄進で復興されたのは昭和39(1964年)です。
浅草寺の宝物の収蔵庫になっているため宝蔵門の名前がついています。門全体の大きさは高さ21.7m、間口21.1m、奥行き8.2m。



お上りさんも終わって!
焼き肉 焼き肉


2件目の焼き肉屋でやっと、hiroakiさんが納得して腰を落ち着けた。

1件目は、評判はいいが、店員の愛想が悪いとか、頼んだ物が無いとか
ビールが生温いとか・・・
ま〜〜確かにそうだったよね。
って、ことで、肉をささっっと食べて「オい!! 次行くぞと」
昨日行ったらしい店へ・・・・

ご満悦だった
最初ッからここに連れてきて欲しいよな!!!



で、3次会が、「地元の衆も寄りつかない」怖い場所・・・と
地元Yoshinoさんは、「俺はいいよ・・」と退散

みて、この怪しさと飲んでる連中も怪しい取り合わせ。

怪しい飲み物・・・電気ビール?確かに痺れた・・・




帰りながらまたまた観光だ!!


浅草寺の五重の搭と宝蔵門(仁王門)の歴史は大きく三つに分けられます。
最初は武蔵の守に任ぜられた「平金雅」による建立、二回目は徳川三代将軍「徳川家光」による再建、
そして第三は昭和になっての戦災と再建となります。
 「応永縁起」によると、最初の仁王門と五重の搭はともに942年(天慶5)、安房守だった
「平公雅(たいらのきんまさ)」が武蔵守へ任ぜられることを浅草寺に祈願し、その希望が叶えられた
お礼に他の建物などと共に寄進しました。これで浅草寺の「堂塔伽藍」が揃ったと伝えられています。
 平金雅はそのほかにも「雷門」を新しく建て、本堂などの再建・修理、田畑の寄進なども行っています。
現在で言えば千葉県知事から東京都の知事になったような出世だと思われますが、それだけ権限も増え収入
の増加も当てに出来たと言うことでしょうか?当時の権力者の「財力」と「信仰心」の大きさを見ることが出来ます。
その後、数度の火災で焼失しましたがその都度再建されてきました。
 徳川時代の三代将軍徳川家光が、木造で最後の五重搭・仁王門・浅草寺本堂を1648年(慶安元)か
ら翌年にかけて再建しました。同時期には浅草神社なども再建されて大伽藍が出来上がっていたものと思われます。
 当時の五重塔は現在の場所から参道を挟んで反対側、宝蔵門の東南方に建っていました。その場所を示す
「搭」の文字を彫った石が埋められています。江戸時代には「寛永寺」「増上寺」「天王寺」の五重の搭と
ともに「江戸の四搭」として市民に親しまれていたそうです。
1911年(明治44)には浅草寺本堂と五重搭は「国宝」に指定されました。これらの建物は1855年
(安政2)の江戸大地震、1923年(大正12)の関東大震災にも大きな破損もなく耐えてきました。
残念ながら、これらの建物のほとんどは昭和20年3月10日の空襲で焼失してしまいました。
 昭和33年の本堂、35年の雷門の再建に続いて、39年に宝蔵門が48年には五重の搭が再建されました。




商売繁盛。家内安全。学業成就。無事安産???・・・を祈る佐々木兄さん









はい おつかれさまでした
またまたやりましょう!!